愛があれば暴力は許される?

どうも、TA(ティーエー)です!


前回の続き。

高校時代、思春期の反抗が気に食わなかった父に、
寝ている所を窓ガラスに叩きつけられる程散々蹴られて自分が崩壊(と今では思っている)してからのこと。


本当に記憶がなく、覚えていないのですが、その後の父との関係なら思い出せます。


一年以上たった時のことでしょうか。


私は父が好きな野球のチームをテレビで観戦しているときに、自分からその野球チームについて何か感想を言いました。
それに対して、父も何かを言いました。

 

そして、少しずつ話すようになり、また父の趣味であった囲碁を覚え(ちょうどヒカルの碁も流行っていた)、父と対局をするようになりました。

 


会話も表面上(自分にとって)はするようになりましたが、今この年になっても父の機嫌に脅えます。

 

今に至るまで、父の私に対しての暴力への謝罪はありません。
父にとっては反抗的な態度も示した子供に対する「しつけ」・「立場をわからせる行為」だったので、当然のことだったのでしょう。

 

 

私は自分から父へ話しかけたことで、さらに酷く自尊心が傷ついたのだと、今では思います。

 

私は父の機嫌を伺いに行きました。

そう、私は服従したのです。
暴力に、父に。


生きていく上で、すべてだと思っている家の中で。


また、今でもそのこと(自分から父の機嫌を取りに行ったこと)を思うと、酷く傷つくのです。


振り返ってみると、この頃から同級生や少しでも関わる他人の顔色を伺う行動が顕著になったように思います。


どのような人であろうと、機嫌を損ねないように接そうとしていたのでしょうね。
なぜなら、機嫌を損ねると、激しく自分を攻撃され、傷つけられるから。

 


社会では「しつけ」と称する暴力を肯定する考えがあります。
心の中で思っている分には別に構いませんが、実行され、そのことで、自分を壊された人の思いはどうなのでしょうか。

 


父が私に振るった暴力。

 

それは愛だったでしょうか?
違うと思います。

 

少なくとも私はその時も、現在も、一度たりともそのように感じていません。

 

 

 

tanomichi.hatenablog.com